山近 義幸 写真

山近 義幸

やまちか よしゆき

ザメディアジョングループ
代表取締役会長
CEO(最高経営責任者)

起業まで

昭和36年(1961)11月22日、山口県玖珂郡由宇町(現在の岩国市由宇町)の農村に5人きょうだいの末っ子として誕生。
広島のタウン誌、広告代理店などで修業を重ね、トップ営業マンとして活躍した。
昭和62年(1987)07月27日、27歳で株式会社ザメディアジョンを設立。出版・情報事業に加え、ザテレビジョン大阪支局長(当時・角川書店)も兼務し、大阪と広島の往復生活を送る。

新卒採用
就職事業
スタート

平成02年(1990)、『週刊ダイヤモンド』グループのダイヤモンド・ビッグ社と電撃提携し、中国・四国地方本部として新卒採用サポート・就活サポート事業をスタートさせた。

現場主義

全国を毎日飛び回り、毎年10,000人の大学生、1,000人の経営者・人事担当者と会うことを自らに義務づけている。その際、全国各地の歴史スポットや神社を巡っている。

講演・執筆

講演活動は、全国の企業・団体・大学・学校など多岐に渡る。
数々の現場経験をもとに、就活生のバイブルとなった伝説の『内定の達人』(サンクチュアリ出版など)シリーズを皮切りに、多数執筆。10年ほど前からノウハウ本よりも、『社運を上げる人財哲学』(PHP研究所)、『国民の就職』(本の泉社)、『山近義幸の学生道』(ザメディアジョン・エデュケーショナル)、『鞄持ちができる人の心得』(ザメディアジョン・エデュケーショナル)など、本質的な「あり方」を切り口にした独自の執筆に着手している。

社長の鞄持ち
インターン
シップ

すでに平成12年(2000)頃よりスタート。ほぼ毎日、全国の大学生の現場同行を受け入れ、
約4500人以上もの多く大学生を〝人財〟として成長させるきっかけを作ってきた。

経営者としての
ビジョン

10人の経営者を輩出すること。
2015年04月現在、ザメディアジョングループ内に6人の経営者を育て上げた。
平成21年(2009)に日本男児の人間力を高めるための「日本ベンチャー大學」を開学。
平成23年(2011)に鹿児島県南九州市(旧・知覧町)の観光大使に任命される。
平成24年(2012)に障がい者アスリート就職・雇用支援「つなひろワールド」をスタート。
平成27年(2015)4月、株式会社ザメディアジョンの代表取締役社長職を退き、代表取締役会長に就任。

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山近を変えた重大事件

01.高校時代

いい企業との、いい仲間との出会いが自分を変えることを知った! 無愛想なのに吉野家のバイトに挑戦したために・・・

01.高校時代

高校時代の山近は、今以上に無愛想。
〝生きた屍(しかばね)〟で、あいさつもできない人間だった。見かねた父親がアルバイトをすすめ、挑戦したアルバイトは吉野家。
「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」が言えなかったが、店長やスタッフたちに鍛えられ、温かく励まされた。
必死になった。
するとあいさつや大きな声を出すことができるようになり、生きた屍の目から涙がボロボロ流れた。
「仕事って、もしかして自分をすごく変えるんじゃないか」。1年半ぐらい続け、そう気づいたらしい。
また、初めて自分で働いてお金をいただく喜びを知ることにもなった。

02.19歳で社会人

努力好きな人たちに囲まれて働くことが大事なのだ! 言葉が豊富なカッコイイ先輩たちに囲まれて・・・

02.19歳で社会人

山近が19歳から働いていた情報誌『タウン情報ひろしま』をはじめ、テレビ情報誌『ザテレビション』、テレビ局、レコード会社の人たちの影響が大きかった。
とにかく粋な人たちばかり(時間にルーズなところはあったけれど・・・)。
この先輩たちに共通して言えたのは、「たくさんの言葉を持っている」こと。
おそらく、影で相当な努力をしていたに違いない。
「でもそれを努力だと思っていない。好きなんでしょうね。本を読んだり、映画を観たり、イベントに行ったり、いろんな人たちと飲んだり。死ぬまでこういう系統の方々に囲まれて働きたいと思いました」
(山近談)。

03.20代前半頃

お酒の力でもいい!? ありのままの自分をさらけ出すこと! 真夜中の大説教と泥酔で気絶ダウンしたが・・・

ある夜、山近は上司である編集長の山口氏からクラブに呼び出される。
「近ちゃん、何か違うよ」と言われながらお酒を飲まされた。
「それって説教ですか」と聞くと「そうじゃない。でも何か違うよ」と返答。
「何が違うんですか。教えてください」と言うと、「いや、それがわかればここに呼ばない。何か違うんだよ」。
その繰り返しが延々1時間。
さすがに山近はイライラしてきてお酒をがぶ飲みしていたら、ぶっ倒れて床で寝てしまう。
夜中に気づいて起き上がると、みんなが拍手。いろんな人たちが。
「近ちゃん、今日はおもしろかったよ」「ステキだったぞ」「今までごめんな」・・・。
全く意味不明だったが、どうも酔っぱらって、弾けて本音でみんなと関わったのが良かったらしい。
きっかけはお酒ではあったが、表面上の上っ面なお付き合いと、ご縁づくりとの違いを知ることになった。

04.27歳で起業

エネルギーは変わったことをやる会社に集まる! ゲロまみれのビアガーデン屋上で起業したが・・・

04.27歳で起業

昭和63年4月、遂に起業。
事務所の場所は、最初は変わったところにしようと探し、ビルの屋上にあるプレハブに。
そこは夏になるとビアガーデンがある場所で、朝出社すると事務所の回りにゲロがあることも。
結果的に、「事務所、変わったところにあるんだってね」といろんな企業の人たちがやってきてくれた。
「変わったことをやる会社や人にエネルギーは集まってくるこの頃から、普通の人と変わったことをすることがうれしくなってきました」。

05.20代後半頃

みんなが同じ方向に向かう経営理念の必要性を知った! 社員とアルバイトがほぼ全員退社したが・・・

05.20代後半頃

まだ会社が8人ぐらいの頃。
出社したらバイトの子しかいない・・・。
この原因は、「経営理念がなかったから」と山近。
そこで、「ご縁と感謝の経営」という経営理念を作った。
「ご縁は大切にしている方だと思う。でも感謝が正直足りなかったのでは。もっと強くなるために、得意なご縁と苦手な感謝をくっつけました」。
三方良しの経営。お客様やうちの会社の一人一人、取引先のみなさんに喜んでいただく経営を心掛けるようになってきた。

06.30代前半

自分に足りない部分が、新卒採用で大きく変わった! 自分一人では仕事ができない・・・

「自分に総合的な能力がない」「欠けている部分が多い」。
そう気づいた山近は、平成4年に田中朋博(現・専務取締役)を新卒採用。
それ以来、毎年、新卒採用を続けている。
チェックや管理が苦手なため、それが得意そうな松本洋明(現・取締役社長)を採用した。
「いろんな人が入ってきて、会社や仕事、そして経営者が大きく変わるきっかけになる新卒採用は本当にいいなと思います」。

07.30代前半頃

人生と経営で必要なことを、ベンチャー邪道プロレスから学んだ! 邪道プロレスラーの大仁田厚の試合を観て・・・

07.30代前半頃

大仁田厚とはプロレスラーであり、国会議員であり、電流爆破デスマッチという〝邪道〟プロレスを作った人。
山近はザメディアジョンの社長と兼務で、ザテレビジョン関西支局長として大阪で活動していた頃、大きなスランプに陥る。
ある日、大阪府立体育館で大仁田厚率いるFMWプロレスを観戦。そこは不思議なことばかり起きていた。
リングを囲む有刺鉄線に、自分で走って激突して血を流している・・・。
ロープから自分で跳ね返って相手の攻撃を受けている。
最後には、血まみれの大仁田はマイクを持ち、「胸いっぱいに、俺は、プロレスが好きなんじゃあ!」と叫んでいる。 おかしな人たちだなと思いながら、山近は会場を出て、すぐに公衆電話から当時東京のFMWの事務所に電話。
そこから人気急上昇中の大仁田との付き合いが始まったのである。

08.30代半ば頃~

ほぼ毎晩、全国の経営者と食事を通して学んでいる! 経営者として足りない自分を実感してでも・・・

08.30代半ば頃~

パーティーや懇親会は苦手だが、ほぼ毎晩、経営者と食事をする山近。
「2~3人の会食は大好きなんですよ。年間200人は食事をしています。いろんな経営者の方々にいろんな質問をして、経営者として足りない自分を実感しつつも、多くのことを学ばせていただいています」。
お互いに本音で話せるのもいいようだ。

09.40代前半頃

今あるたまたまな命を精根尽き果てるまで捧げる! 高田馬場駅に転落落下。命拾いしたのは・・・

平成15年(2003)6/20、山近は高田馬場駅で線路に落下。
2年前の1/26、隣の駅で韓国人留学生の李くんが、同じく落下した日本人を助けようとして亡くなっていたが、
2人の学生がホームを飛び下り、山近は救助された。
それから毎年、山近は1/26の19:16頃に必ず新大久保駅に行き、手を合わせている。
「同じような出来事があったのに、自分の命は助けられました。手を合わさずにはいられません」

10.40代半ば頃

社長の鞄持ちインターンシップをスタート。約15年続けている! カバンが行方不明、体力も精神もやられても・・・

平成12年(2000)頃よりスタート。
ほぼ毎日、全国の大学生の現場同行を受け入れ、約4500人以上もの多く大学生を〝人財〟として成長するきっかけを作ってきた。
カバンを持つ学生がいなくなったり、はぐれたり・・・とトラブルが続いても。挫けそうになったとき、思いついたのは、自然体で学生と関わること。いや、気をつかわないこと。
未来を担う学生たちに、あえて説明不足な対応をすることで、学生自身に考えさせたり、主体的に行動させる場にしている。

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